好きなものについて

 最初はオモチャが好きだったのだと思う。オモチャで遊ぶ経験なんて誰にでもあるもので、ことさら好きだったものとして取り上げるようなものではないのかもしれない。けれど、自分が何かを好きになるということの源流の一つにはオモチャで遊ぶことがあったと思うし、何か自分にとっては欠かせない経験の一つであると思えてならない。スポーツが好きな子供だった人にとっては、スポーツがそれなのかもしれないが、それを好きになることを通じて、初めて何かを楽しいと思ったり、好きになったりすることを自覚する、その何かが、自分にとってはオモチャだった気がする。レゴブロックに始まり、玩具メーカーが販売して子供に大流行したキャラクターものの玩具だとか、あるいはオモチャではなく普通の雑貨や文房具をオモチャに見立てて楽しんだり、そういった遊びがとにかく好きだったと思う。

 そこから流れて、漫画が好きになった。もともとかなり小さなころから夕方に大量に放送されていたテレビアニメを見る習慣があって、その時はおそらくアニメも漫画も同じような物語の媒体として楽しんでいたと思うけれど、漫画は所有物として手元に残り、何よりアニメよりもよっぽど個人が手で作ったものという感覚が強かった。自分で漫画を描くことも覚えたし、漫画家という職業も知った。その時は絵には興味がなく、ストーリーや設定が好きだった。

 ゲームを買ってもらうと、ゲームにもハマり始めた。攻略本も好きで、設定や、キャラクターなどの要素の配置のされ方などを見るのが楽しかった。もともと法則性というものが好きで、それは自分でも自覚していて、だからレゴブロックや、算数や漢字も好きだった。ゲームの音楽にも興味を持った。歌も昔から好きだったのだ。

 その後、アニメや音楽を好きになったけれど、アニメや音楽と、オモチャや漫画やゲームとでは、好きという感覚がひょっとすると少し違うかもしれない。アニメや音楽は、何というか、合理的に好きになっているような気がする。わざととか無理やりではないのだが、好きになる理由や原因が意識の内にはっきりあるような気がする。対してオモチャや漫画やゲームは、法則性が好きというのもそうだけど、もうどうしようもないものというか、無意識に抗えずに好きでいるような感覚がある。動かし難い。好きになった時期が早いせいだろうか。音楽でも、音楽理論は後者の感覚で好きである。

 大学に入ってから、批評や現代思想といった、好きな学問の分野というものができて、それに伴って勉強というものもそれまでとは別の捉え方である程度好きになったのだが、これらはオモチャや漫画やゲームと同じような感覚で好きになっている気がする。無意識的なところに原因があって、抗えない。

 書いていて思ったが、オモチャにせよゲームにせよ勉強にせよ、自分が実際に手や頭を使って、自分でやるものが好きなのかもしれない。漫画も、空想にふけるのも含めて、自分からその漫画のことを考えるようにして読む。自分の手でページをめくるという動きのせいもあるかもしれない。音楽理論や楽器を触ることも、自分で考えて手を動かす。とすると、アニメや音楽は、これらに比べると受け取るものというか、いまいち自分からそのことを考えていくやり方が身についていないのかもしれない。漫画に比べて小説をあまり楽しめないのも、同じ理由なのかもしれない。ならば、アニメや音楽や小説を、漫画を読んだりゲームをしたり、あるいはオモチャで遊ぶような感覚で見たり聞いたりできるようになったら、これらも無意識から好きになって、動かし難いものになるのだろうか。