眠りについて
身体が眠りを欲した時にだけ、眠りへの動機はポジティブになる。それ以外の時は、起きていれば出来るはずの楽しいことを我慢して眠りにつくのだから、その動機は消極的なものであり、寝ることは我慢なのである。
我慢なんかで眠ってたまるか、と言う気持ちがある。
それで翌朝寝不足で目を覚ませば、身体が眠りを求めているのだから、ポジティブに眠りたくて仕方がない。それでも二度寝をせずに会社に行ったりするのも、また我慢である。
せめて会社に行くことが楽しければいいのに、と思う。いや、全く楽しくない訳でもないが、会社に行くだけでは到底楽しみ足りず、だから帰宅後も楽しみを求め続け、だから身体も眠くなってくれないのだ。
眠ることも、それ自体は楽しみではないし(寝ている時に楽しいもつまらないもないのは当たり前だ)、起きて楽しいことをすることに、寝ることが勝てる訳がない(身体の要請に応える場合を除いて)。
こうして、明日もきっと、寝不足で1日が始まる。昼間も眠気は続き、そのことが余計に仕事から楽しみを減らす、そしてまた夜には眠りを遠ざけるという悪循環に陥るのだろう。
ただこれは良いことでもある。楽しいことが楽しくて仕方がないのだから。
人生が楽しいのは良いことだ、多少の寝不足がそのツケとなろうとも……?
好きなものについて語る①
歌うことが好き。声がメロディになるのが楽しい、響きになるのが楽しい。詞を口に出せるのが楽しい。ムードが演出されて、自分の気分が曲に引っ張られるのが楽しい。歌が好き、メロディが好き。面白くて好き。歌声も好き、色んな声の出し方が好き、掠れた声をダウナーに投げやりに放り投げるようにぶつけるロックが好き、強烈な勢いでスピットするラップが好き、喉の奥の低い反響を渋く聞かせるラップの節の付け方も好き、声の伸ばし方を小刻みに半音やもっと細かく揺らしていくアドリブの歌い上げ方も好き、余裕を持って響くビブラートが好き、マイクを持つことすら気持ちがいい。
楽器を弾くことが好き、体と気分の揺れが直に音とリズムを生み出していくのが好き、指がバタバタと動き回るのを喜ぶ、体が楽器を揺らし、楽器が体を揺らす。意識が楽器につながって、歌えなかった音が歌えるように、音楽を内側から動かせる。音楽を操ってみせて、音楽に操られてみせる。ピアノの規則と規律に従って並べられた白と黒の88鍵が好き、ペダルを踏むのも好き、ギターを握って右手を振るのも好き、弦で遊ぶように指がリフを探し当てるのも好き。
やりたいこと
ゲームは好きだしやるのも楽しいからほんとはもっと買ってもっとやりたいはずなんだけど全然買わないし全然やらない、お金も時間もかかるし、日々の中にゲームをうまく組み込める気もしないから。
時間もお金も無限にあったら、やりまくりたい。本当はこのゲームが好きなんだ!と思ったタイトルを一通りやりたい。やり尽くしたい。面白いし感動するに決まっている。
でもしない。できない。ゲームに手を出す前に、自分に納得いってないから、ゲームしてる場合じゃないだろ、となる。
映画見たり本読んだりできるのは、映画見たり本読んだりしてる場合ではあるだろ、となるから。実益を感じるから、納得させられる。
やりたい気持ちと実益になるぞという認識が両方ないとやらない。できない。
実益ってなんだ。
「自分はこうあるべき」みたいなのに、実は縛られすぎ。
でもないならないで、どうしてればいいのかわからなすぎて困る。
歌を歌いたい、なら歌手になるべき?
ゲームがしたい、ならゲーム実況者になるべき?
勉強がしたい、なら研究者になるべき?
ラップがしたい、ならラッパーになるべき?
どれも違うと思う。
〇〇になる、というのは生き方の問題であって、
何がしたいではなく、どう生きていきたいで決まると思う。
サラリーマンになる人は、企業に就職して、勤め人として一定量、ある企業の職務をこなすことで、立場を固めてまとまったお金を稼いで、余暇や家計に回しながら生きる、という生き方のイメージがあって、サラリーマンになると思う。
昔は、ゲームも音楽も漫画も好きで、全部やっていく生き方がしたくて、でも他の仕事をしながらだと全部をやる時間がないから、その内一つを仕事にして、残りの時間で他をやる、というイメージを持っていた。それで、その生き方ができそうだから、漫画家になるイメージを持っていた。
ただ、当たり前ながら、漫画家は前提として漫画を描いて生きていくという生き方なので、漫画を描かない人間は漫画家にはなれないのだった。
今、および大学の頃はというと、やりたいことの中身が少しずつ変化している。大学の頃はアニメが作りたいと思って、絵を描いたり作画をしたりしていたいと思ったから、アニメーターになるというイメージがあった。他には、勉強したいとか、ラップしたいとかが増えた。
しかし、漫画家と同じように、明らかにそれをやって生きていると言えるようなものでないと、それが職業になるまでには至らない。アニメーターにならなかったのは、アニメーターになるほど、絵を描いたり作画をしたりして生きていなかったからだ。勉強にしても、ラップにしてもそうだ。
その意味で、これらはサラリーマンのように、イメージに従って動けばその身分を確保できるようなものではない。行動が生き方になるものだからだ。
ゲームの話に戻ると、ゲームをやれない理由の一つに、消費と投資を分ける考え方があると思う。
ゲームをやっても、それが将来の自分の身分の確保に、直接繋がるわけではない。ゲームをやるのは、ゲームをやることに目的がある。ゆえに、それは消費である。
他方で、勉強や鑑賞(分析)は、少なくとも何かしらの投資となって、将来の自分にとって役立つ経験となるだろう、という見通しがある。「実益」という感じ方もここから来ている。
歌やラップは、それによって身体的な技能が少しでも向上するという点で、投資的である。
でも本当は、そんなことを考えずに、少しでもやりたいと思ったことを全部やっていきたいのかもしれない。
テトリスまとめ(練習・習得した順)
・ミノの種類と名前
Iミノ(水色)、Oミノ(黄)、Tミノ(紫)、Jミノ(青)、Lミノ(橙)、Sミノ(緑)、Zミノ(赤)
・回転方向と回転軸
Oミノ・・・回転なし(軸:中央の点)
Iミノ・・・2種類(回転軸:中央下の点)
Sミノ、Zミノ・・・2種類(回転軸・・・下のブロック)
Tミノ、Jミノ、Lミノ・・・4種類(回転軸・・・3列中央のブロック)
(I、S、Z・・・A(右回転)orB(左回転)により位置変動)
・平積み
・掘り
・TSD
・中空け積み
・最適化
回転方向(I、S、Z)
端寄せ→バック
端寄せ→回転
端寄せ→バック+回転
・開幕DT砲テンプレ
・TST
・7種類周期カウント(2からスタート)
課題選択→方法の明確化→練習(反復)
一つずつできるようにしていくこと→全体像の規定+課題のリストアップ
習得・・・報酬
全体の目的性←ゲーム性
フィクション:一日
朝起きて、いつもの習慣でコーヒーを飲んだ。ネットの記事での評判と蘊蓄に唆されて買った、それまで馴染みのなかった種類のやや高級な豆だが、結構気に入ってしまい、コーヒーを飲んでぼうっとする時間が少しだけ長くなってきている。
今日は休日で、カップを片付けて何をしようか考えていると、本棚の上の読みかけの小説が目に入り、それを一時間ほど読み進めた。久しぶりの長編SFだ。舞台設定は現代からほど遠くない近未来となっているが、小説をどっぷり読んでからテレビのワイドショーを見ると、なんだか現実は現実で大概小説のような世界になってきているような、いや気のせいでもあるような、とにかく映像の向こうの社会の出来事との距離感が少しずれるような感覚を味わう。もし自分がこの手のSFを書くとしたら、どんな立場の人を主人公にするかな、などと考えてみる。
昼前、思い立って美術館に足を運ぶ。気になっていた画家の回顧展だったが、思いの外あまり印象に残る絵がなかった。灰色の絵が多かった。美術館の額縁の中でまで見たい色ではない。一点、子供たちを描いた絵があって、可愛らしくもないが大人びても見えない不思議な存在感が、帰り道で思い出された。
夕方から友人と落ち合い、夕食を共にした。調子は相変わらずだったが、第三者の噂話が盛り上がったのは珍しいことだった。話の中で人物像が誇張されていき、なんだか別の知らない人が現れたみたいで、一人歩きする噂の来し方行く末を想像してみたりした。
家に帰ると、早めに床についた。明日の帰りにCDをレンタルしにいこう。もしかしたら、目当ての曲があのアルバムに入っているかもしれない。
雑文(内面的が過ぎる)
美しいものが美しくあれるように、美しい人が美しくあれるように、皆が皆として充実していられるように、祈りたい。
才能を持っていると思った人は、やっぱり期待してしまうし、応援したい。その才能が報われてほしいと思う。報われてほしいというのは、世界になのだと思う。
それが生きることの充実であり、それが生きることへの愛なのならば、自分を愛するために(世界から反響して聞こえる愛の声に応えるために)、自分の才能を理解したいと思う。
反省文:絵と学生時代と進路について
大学1年の時、絵画の味方という講義を受けて、美術史学的な方法論に惹かれ、その後美術史コースに進級した。
大学に入ってアニメーションの制作サークルに入り、アニメ作品のためにもという意味も加わって、絵を描くということについてそれまで以上に考え、また実践していこうとも思っていた。
アニメ的な絵に準じた落書きは、もちろん美術史が対象とするような西洋絵画とは全く異なる論理を持つものだが、その両者、また映画などの映像媒体も含めて両者に通底する論理を捉え、それによって絵やアニメや映画をよりよく鑑賞し、また創作の礎としようとしていた。
しかし現実的な行動選択の論理は、そのように統合し包括することができなかったと言える。アニメ作画の実践をするならば、アニメーターとしての技術を学び、修練し、アニメーターという職業を選んで、それに向けた就職活動や創作をしなければならなかった。絵画や視覚芸術の理論を研究するならば、アニメ作画というカテゴリーは括弧に入れ、その分野の基礎的な教養を身につけ、卒業論文を執筆し、大学院への進学も考えて勉強と研究を進めなければならなかった。そのいずれもなし得ていない。また、単にそのような領域に関係のある企業への就職、という選択肢は考えることができなかった。そういった選択肢においては、企業への就職というものがそもそもの積極的な理由であり、絵や視覚文化に関する動機は主眼とはならないと思えたからだ。
一方で、サークルに入った動機としての映像制作への関心から始まって、物語映像による表現というものにも関心を持つようになった。大学の映画に関する講義や文献は、この関心にとって非常に助けとなった。アニメーション制作サークルという環境もあって、アニメ作品の演出という表現および職業を考えるようになったことは当然だった。しかしここでは、自分の中の絵への関心、視覚文化への関心と、アニメ作品の演出への関心とは、決して必然的な結びつきを持っていたわけではなかったと言える。絵、映像制作、視覚文化論、物語映像、これらの関心が交わる最大公約数的なものとして、ある意味で消極的に浮上してきた選択肢だったのではないだろうか。
その後、この消極性に中身を意味づけしようと、勉強の食指を伸ばしはした。しかしそれは、もともと持っていた絵や、さらには漫画などへの関心に報いることができなかったという点で、後付けの域を超えなかった。
実践として絵を描いたり、創作を構想する時には、自分の根源的な関心に立ち返ろうと模索した。しかしそれは必ずしも、その時の自分の関心の状況と、そのまま簡単に結びついてはくれなかったし、結びつけきることもできなかった。目的と手段とが一致していなかった、ということだろうか。