やりたいこと
ゲームは好きだしやるのも楽しいからほんとはもっと買ってもっとやりたいはずなんだけど全然買わないし全然やらない、お金も時間もかかるし、日々の中にゲームをうまく組み込める気もしないから。
時間もお金も無限にあったら、やりまくりたい。本当はこのゲームが好きなんだ!と思ったタイトルを一通りやりたい。やり尽くしたい。面白いし感動するに決まっている。
でもしない。できない。ゲームに手を出す前に、自分に納得いってないから、ゲームしてる場合じゃないだろ、となる。
映画見たり本読んだりできるのは、映画見たり本読んだりしてる場合ではあるだろ、となるから。実益を感じるから、納得させられる。
やりたい気持ちと実益になるぞという認識が両方ないとやらない。できない。
実益ってなんだ。
「自分はこうあるべき」みたいなのに、実は縛られすぎ。
でもないならないで、どうしてればいいのかわからなすぎて困る。
歌を歌いたい、なら歌手になるべき?
ゲームがしたい、ならゲーム実況者になるべき?
勉強がしたい、なら研究者になるべき?
ラップがしたい、ならラッパーになるべき?
どれも違うと思う。
〇〇になる、というのは生き方の問題であって、
何がしたいではなく、どう生きていきたいで決まると思う。
サラリーマンになる人は、企業に就職して、勤め人として一定量、ある企業の職務をこなすことで、立場を固めてまとまったお金を稼いで、余暇や家計に回しながら生きる、という生き方のイメージがあって、サラリーマンになると思う。
昔は、ゲームも音楽も漫画も好きで、全部やっていく生き方がしたくて、でも他の仕事をしながらだと全部をやる時間がないから、その内一つを仕事にして、残りの時間で他をやる、というイメージを持っていた。それで、その生き方ができそうだから、漫画家になるイメージを持っていた。
ただ、当たり前ながら、漫画家は前提として漫画を描いて生きていくという生き方なので、漫画を描かない人間は漫画家にはなれないのだった。
今、および大学の頃はというと、やりたいことの中身が少しずつ変化している。大学の頃はアニメが作りたいと思って、絵を描いたり作画をしたりしていたいと思ったから、アニメーターになるというイメージがあった。他には、勉強したいとか、ラップしたいとかが増えた。
しかし、漫画家と同じように、明らかにそれをやって生きていると言えるようなものでないと、それが職業になるまでには至らない。アニメーターにならなかったのは、アニメーターになるほど、絵を描いたり作画をしたりして生きていなかったからだ。勉強にしても、ラップにしてもそうだ。
その意味で、これらはサラリーマンのように、イメージに従って動けばその身分を確保できるようなものではない。行動が生き方になるものだからだ。
ゲームの話に戻ると、ゲームをやれない理由の一つに、消費と投資を分ける考え方があると思う。
ゲームをやっても、それが将来の自分の身分の確保に、直接繋がるわけではない。ゲームをやるのは、ゲームをやることに目的がある。ゆえに、それは消費である。
他方で、勉強や鑑賞(分析)は、少なくとも何かしらの投資となって、将来の自分にとって役立つ経験となるだろう、という見通しがある。「実益」という感じ方もここから来ている。
歌やラップは、それによって身体的な技能が少しでも向上するという点で、投資的である。
でも本当は、そんなことを考えずに、少しでもやりたいと思ったことを全部やっていきたいのかもしれない。