ワ◯ラ特別篇について

 先日、W◯FLの追いコンがあった。自分たちの下の下の代の追いコンで、二次会のみの参加だったのだが、開会にやや遅れて到着し座った席の近くには、追い出される代である現四年生、つまり自分の二代下の後輩が三人座っていて、相変わらずこちらが恐縮してしまうような物言いをされて、いやいや今日はそちらが気を使われる側の立場でしょうと、まあつまり相変わらず変な形式性の戯れに捉えられてしまうのだった。

 で、自分の作品の話が出た。新歓などの行事のたびに流すんですよ、とか言われ、自分はたびたびこの作品を振り返って考えてみたりするのだが、この頃もちょうどそうしていた時期で、語ろうと思えば語れたのだが、そんな話の流れになることをこの時の自分は拒んだ。

 なぜかといえば、この時自分がこの作品について語りたかったのは、この作品のいいところ、よくできていると思うところであり、つまり猛烈な自画自賛がしたかった。もちろんダメなところについても話せたし、自分がいいと思うところを他の人はどう思っているのかを聞きたかったが、前提としてあったのは自分の作品をべた褒めしてやろうという気持ちだった。で、久しぶりにサークルに、それも後輩が主役の場に来たOBが、いきなりする話ではどう考えてもないだろう、お酒の力を借りないととてもできない、と思って、その話はしなかったわけだ。

 でも、と思う。仮に表面的にだったとしても自分の作品に好意的に接してくれて、かつ社会人になってしまっては数年前の大学時代の他人の作品のことなんてまともに取り沙汰しようはずもない後輩たちの最後のサークルの場である。すでに十分遅い話題であるとしても、最後の、そして絶好の機会だっただろう。

 たった二週間ほど前のことだが、今はその日すら昔のことのようだ。

 

 未だに縋りたくなるような、また縋らせてくれるような作品を一つ作れたことは間違いなく幸せなことだろうけれど、未だにそれに縋ってしまうことは不幸であるような気もする。あの作品について、作った当の本人だからでももちろんあるのだろうが、未だに自分は色んなことを語れる。とにかく、良くも悪くも大事な作品である。

近況

 相変わらずアニメについて考えたり考えなかったりしている。映画のことも考えるのだが、いかんせん消費量が振るわない。

 

 現実というものに狼狽えて言葉を組めば組むほど、その言葉の組み上げが現実というものの姿を建築のように強固に出現させてしまう。かくして、内部から建てていった家が完成してそこから出られなくなってしまうような、また出られたとしてもそれがある種の逃避であるかのような、一個の力の構造が立ち現れてしまう。しかし、それも欺瞞であろう。

 

 人は物語を採択して生きる。脱物語的な視点は、物語の外側に出ることを可能にするが、物語同士が物語的に衝突するその交錯の磁場の力を体験する視点を無化してしまう。 

 ゆえにより強固で重層的な一つの物語を練り上げていくと、それは例の現実というものを否応なく現前させてしまうのだ。

 

 現実を視るというのは、並大抵のことではない。

 それは自らが視るべき現実というものをも、自らの物語が作り上げてしまうものに他ならないからだ。

 ゆえにその意味で、現実は如何様にでも変えられる。変えられるがゆえに、一つの現実を視るに至るのは難しい。

 

 この先に、物語と現実が真の出会いを果たす場所が現れるのだ。

好きなものについて

 最初はオモチャが好きだったのだと思う。オモチャで遊ぶ経験なんて誰にでもあるもので、ことさら好きだったものとして取り上げるようなものではないのかもしれない。けれど、自分が何かを好きになるということの源流の一つにはオモチャで遊ぶことがあったと思うし、何か自分にとっては欠かせない経験の一つであると思えてならない。スポーツが好きな子供だった人にとっては、スポーツがそれなのかもしれないが、それを好きになることを通じて、初めて何かを楽しいと思ったり、好きになったりすることを自覚する、その何かが、自分にとってはオモチャだった気がする。レゴブロックに始まり、玩具メーカーが販売して子供に大流行したキャラクターものの玩具だとか、あるいはオモチャではなく普通の雑貨や文房具をオモチャに見立てて楽しんだり、そういった遊びがとにかく好きだったと思う。

 そこから流れて、漫画が好きになった。もともとかなり小さなころから夕方に大量に放送されていたテレビアニメを見る習慣があって、その時はおそらくアニメも漫画も同じような物語の媒体として楽しんでいたと思うけれど、漫画は所有物として手元に残り、何よりアニメよりもよっぽど個人が手で作ったものという感覚が強かった。自分で漫画を描くことも覚えたし、漫画家という職業も知った。その時は絵には興味がなく、ストーリーや設定が好きだった。

 ゲームを買ってもらうと、ゲームにもハマり始めた。攻略本も好きで、設定や、キャラクターなどの要素の配置のされ方などを見るのが楽しかった。もともと法則性というものが好きで、それは自分でも自覚していて、だからレゴブロックや、算数や漢字も好きだった。ゲームの音楽にも興味を持った。歌も昔から好きだったのだ。

 その後、アニメや音楽を好きになったけれど、アニメや音楽と、オモチャや漫画やゲームとでは、好きという感覚がひょっとすると少し違うかもしれない。アニメや音楽は、何というか、合理的に好きになっているような気がする。わざととか無理やりではないのだが、好きになる理由や原因が意識の内にはっきりあるような気がする。対してオモチャや漫画やゲームは、法則性が好きというのもそうだけど、もうどうしようもないものというか、無意識に抗えずに好きでいるような感覚がある。動かし難い。好きになった時期が早いせいだろうか。音楽でも、音楽理論は後者の感覚で好きである。

 大学に入ってから、批評や現代思想といった、好きな学問の分野というものができて、それに伴って勉強というものもそれまでとは別の捉え方である程度好きになったのだが、これらはオモチャや漫画やゲームと同じような感覚で好きになっている気がする。無意識的なところに原因があって、抗えない。

 書いていて思ったが、オモチャにせよゲームにせよ勉強にせよ、自分が実際に手や頭を使って、自分でやるものが好きなのかもしれない。漫画も、空想にふけるのも含めて、自分からその漫画のことを考えるようにして読む。自分の手でページをめくるという動きのせいもあるかもしれない。音楽理論や楽器を触ることも、自分で考えて手を動かす。とすると、アニメや音楽は、これらに比べると受け取るものというか、いまいち自分からそのことを考えていくやり方が身についていないのかもしれない。漫画に比べて小説をあまり楽しめないのも、同じ理由なのかもしれない。ならば、アニメや音楽や小説を、漫画を読んだりゲームをしたり、あるいはオモチャで遊ぶような感覚で見たり聞いたりできるようになったら、これらも無意識から好きになって、動かし難いものになるのだろうか。

お笑いについて

  お笑いは昔から好きなのだけど、最近はもうはっきりと、お笑いを見ていて人の才能に眼がいく。そういう見方になってしまう。才能が、個人っていう形で特定されて、それに感銘を受けながら笑って見てる。

 固有名を挙げていくのはちょっと恥ずかしいのだけれど、ハリウッドザコシショウとか特に天才だと思う。大きなところで松本人志、コントだと東京03飯塚悟志、コンビだと最近はさらば青春の光とかカミナリとか、前はオードリーだったりメイプル超合金だったりで、あと芸人ではないが最近藤井健太郎は本当にすごいと思うし、といったところなのだけれど、とにかく個人に感動しながら見てる。その人の人間としての結晶のしかたが好きになると、実際あまり笑ってはいなくても、結構夢中で見てしまう。なんか、笑うだけじゃなくて、感銘こみで、面白いなーという陶酔みたいなものがあって、それと単純にウケることとが両方ある、みたいな面白がり方をしている。

 それと関係があるのかはわからないけれど、腹を抱えて笑うことがめっきりない。笑い続けて、それがあるゾーンみたいなものに入って、そうなると同じ笑いを追撃されるだけでどんどん面白くて、ついには顔はあまり笑えなくなってひたすら腹が痛くなり続けるという、いわゆるツボに入るというやつの大きいのが、もう数年とか、下手したら10年くらいないんじゃないだろうか、ってくらいない。で、ふっとそれを求めてしまう時がある。あるいは、本当はずっとそれを求めているから、小さい笑いでも追求してしまうのかもしれない。あれは本当に奇跡的なものだと思う。

 お笑い芸人のネタの完成度を尊ぶのと同じような感覚で、日常の中の雑談とかに生まれる笑いや面白さが、その生まれてくる過程も含めて、愛おしくてたまらない。笑うと楽しいからとかじゃなくて、笑いっていうのは何か、感覚のねじれとか、ずれとかがないと生まれないもので、そのねじれやずれっていう複雑で変な形が偶然に生まれたり、あるいは人が狙ってそれを作ることに成功したりっていう、そのことがたまらない。で、それの裏返しとして、そういうなんらかの妙みたいなものが感じられないネタ、例えば自分の言葉でいうところのパワー系のネタがあんまり好きじゃない。パワーというか、ある種の強引な感じは、ひねりの上にのるとメチャクチャ面白くなるんだけど、パワーだけ取り出しても面白くない。逆に、メチャクチャパワー系に見えて、そこに確かにひねりが成功してるととても好きになってしまって、その例がハリウッドザコシショウカズレーザーといった感じである。

 笑いは、それがバグみたいなものだから面白い。

 

 

追記

 

アニメについて

 最近魔法陣グルグルを見ている。現行のテレビアニメを見るのは久しぶりである。その前はけものフレンズだった。

 最近のアニメは平面性とかキャラクターの記号性とかが一周回ってさらに強調されるようになった気がしていて、そのことに対する開き直りというか、それをうまく使っているという感じを受ける作品じゃないと見ててしんどい。

 メタ的になっているということかもしれない。

 テレビアニメだと、2000年代後半のものが特に好きな気がする。深夜アニメを見始めた時期ということもあり、感覚的に抵抗なく見れるのかもしれない。明るすぎず豪華すぎない画面の色味もちょうどいい。というか十分明るく豪華になっている時期なんだけど、それより後がやりすぎなんじゃないかと思ってしまう。画面を豪華にしすぎると、贅沢なものを見るのが楽しい、という方向にいってしまって、なんでもないものに没入するという感覚が持ちづらい。

 映画だと、最初から一対一で向かい合っている感じがあるので、こちらにある種の覚悟があって、それを作品が受け止めてくれれば一体化が成立、で、そういう強い力による一体化なので、2時間の中で一気に盛り上がっておしまい、となる。のだけど、テレビアニメはそうじゃなくて、ゆるく見始めて、ゆるゆると没入して行って、長い時間をかけてフィニッシュする。ので、懐のゆるさみたいなものがいる。で、豪華すぎると入り込めない。入り込めなくてもいいように、外側から見てて楽しいっていうものになっていく。見世物感がある。

 アニメに限らず、今のソシャゲのビジュアルの盛り上がり方とか、なんかギラギラしていて、そばにおいとく置物感がない。派手すぎる。家具とか服とか小物とかと一緒で、ある程度地味じゃないと、一緒に生きていけない。それがきつい。だからクールジャパンのアピール感もダメなんだと思う。寄り添いたい人だけ寄り添ってればいい。

 

 

追記

 

 派手さとか、見世物感とか、豪華さとか、その時は面白いけど長くは寄り添えない感じって、要するに使い捨て感なのだと思う。1クールで、大量に作って、流行に合わせて、終わったら忘れて次、またキラキラしてて、みたいな。一発ネタ感。消費する感。